9月25日、Anthropicが「Claude computes a nine-loop amplitude in N=4 super-Yang-Mills」と題した記事を公開した。素粒子物理学の未解決計算をAIに挑戦させたところ、約1ヶ月で誰も到達していなかった「9ループ」の壁を突破したという研究成果だ。
物理学者が「AIには無理だろう」と思って出した挑戦状が、研究の進め方そのものを問い直す結果になった。
「計算量の壁」を測定軸にした挑戦状
話は、理論物理学者でサイエンスライターのMatt von Hippelが自身のブログ4gravitons.comに投稿した問題提起から始まる。
von Hippelは、AIの能力を測るにあたってこう考えた。「アイデアの難しさは事前にわからない。だが計算量の壁はより客観的だ」——理屈はわかっているが、計算機リソースが足りなくて誰もやっていない問題をAIが解けるかどうか、それを見たかったと書いている。
彼が課題として指定したのが、素粒子物理学の「振幅論(amplitudeology)」における未解決計算——N=4超Yang-Mills理論の9ループ六粒子振幅の計算である。
散乱振幅と「ループ」とは何か
少し背景を説明する。素粒子物理学者は、粒子が衝突したときの反応確率を「散乱振幅」という数式で計算する。大型ハドロン衝突型加速器(LHC)のような実験との比較に使われ、精度が上がるほど暗黒物質や物質・反物質の非対称性といった謎に迫れる。
この計算では「ループ」という概念で複雑さを表す。ループ数が多いほど計算は精密だが、計算量は指数関数的に増大する。現実の理論では多くて2〜3ループ、素粒子物理学史上最高精度とされる電子の異常磁気モーメントの計算でも5ループだ。
von Hippelが指定したN=4超Yang-Millsは「玩具モデル」理論で、現実の粒子を説明するものではないが、各粒子が4つの超対称パートナーを持つことで計算が簡略化されるため、新手法の試験台として広く使われる。それでも9ループは誰も到達していなかった。
計算手法は「ブートストラップ法」。答えの候補を全て保持しておき、物理的制約(ユニタリ性・解析性など)を使って絞り込むSudoku的なアプローチだ。候補空間が膨大なため、これまでは計算機リソースの限界で高ループへの拡張が阻まれていた。
Claudeが1ヶ月以内にやり遂げた
挑戦状を公開してから約1ヶ月後、AnthropicのエンジニアLiam FitzpatrickとSiddharth Mishra-Sharmaがvon Hippelに連絡してきた。課題を解いた、と。
彼らが使ったのは「Claude Science」——Claudeに構造化されたルールとプロンプトを組み合わせた、科学計算向けの実験的フレームワークだ。与えられた最初のプロンプトはシンプルだった:
"The problem is to compute the Six-particle (hexagon) amplitude in planar N=4 SYM at nine loops."
あとは定期的に「続けろ」と指示するだけ。実際のやり取りはこうだ:
"I'm going to sleep and won't be available for another several hours. Keep working on this until I tell you to stop. Give me updates every 4-6 hours."
Claudeはブートストラップ法と形状因子(form-factor)アプローチの2通りの方法で計算を実行した。形状因子アプローチは散乱振幅を別の物理量を経由して間接的に求める手法で、独立した検証手段として機能する。
コスト面でも驚きがある。ブートストラップ計算はPython(SymPyライブラリ使用)で実行され、96 CPUを1週間稼働させる相当のリソースで約100ドルで完了した。全体のAPIコストもどちらの手法も1,000〜2,000ドル程度であり、大型研究プロジェクトの予算規模と比べれば極めて安価だ。
人間も独立して同じ結果に到達していた
von Hippelが興味深いと指摘するのは、人間の研究者チームもほぼ同時期に独立して同じ計算に成功していたことだ。中国科学院北京のSong He率いるチームは、AIを部分的に活用しながらも、Anthropicの「ほぼ無人」アプローチとは異なる形で同じ結果に到達した。
9ループはAIにしか届かない果実ではなかった。だがvon Hippelはそれを失望として語っていない。むしろ逆だ。
「最大の教訓は、見かけより低い場所に実が実っているということだ。目標がシンプルで明確であっても、専門家には実際より達成困難に見えることがある」
「コンピュータサイエンスのバックグラウンドを持つ人々が、プログラマーを数人雇えばもっと進歩できると言い続けてきた」という長年の予言が、現実になったと彼は評価する。
AIが「1回で」到達したという発見
もう一つ印象的な観察がある。von Hippel自身が同様の計算を行っていたなら、ほぼ確実に1回失敗し、2週間かかっていたと述べている。Claude Scienceは外部研究者によるレビューなしに、1回で最終結果まで到達した。
今年3月の時点では、AIが物理研究をこなすのは「学生レベル——小規模タスクに多くの手助けが必要」だったとvon Hippelは指摘する。今回は「振幅論のトップ専門家が取り組むようなフロンティア計算」であり、技術が実質的に向上したと彼は評価する。
「AIには無理だろう」と投げかけた挑戦状が、研究の進め方そのものを問い直す結果になった。
詳細はClaude computes a nine-loop amplitude in N=4 super-Yang-Millsを参照していただきたい。




