10月13日、Matthew Kingが「AI labs are buying data from dead startups to train their models」と題した記事を公開した。倒産・解散したスタートアップの社内データをAIラボが買い取り、モデル訓練に活用する新興産業の実態を詳しく報告している。なお本記事で扱う「データの売買」は、清算手続きの一環として企業資産を売却するものであり、在籍中の従業員データが無断で流通するものではない点をあらかじめ補足しておく。
なぜ今、死んだスタートアップのデータが求められるのか
この動向を理解するうえで、まず需要側の事情を押さえておく必要がある。AIラボは現在、公開データおよび合成データの限界に直面している。合成データには「存在しない日付の参照」のような誤りが混入しやすく、実在の業務履歴には質的な優位性があると見られている。こうした背景から、廃業スタートアップが残した実務データへの関心が急速に高まっているのだ。
「死んだスタートアップ」のデータが売れる時代
今年、自身の暗号資産スタートアップの清算を進めていたKeelan Miskell氏は、社内データがまさか換金できるとは思っていなかった。しかし結果として、コードベースで約2万5,000ドル、Google・Notion・Figma・Slackのワークスペースデータで約1万5,000ドル(交渉中)を得た。「2年半やってきたことが、どこかの誰かにとって価値を持つということが、せめてもの救いだ」と彼は語る。
この売買を仲介したのはSimpleClosureというスタートアップ清算支援会社だ。CartaやAngelListのデータによれば、スタートアップの廃業件数は近年年間26〜56%増で推移している。こうした廃業の急増を受け、清算に伴う法的・税務的手続きを支援するサービス群が一大エコシステムを形成しつつある。業界では「デス・ドゥーラ(death doula)」という俗称で呼ばれることもあるが、これは終末期医療における「看取り支援者(doula)」になぞらえた表現で、スタートアップの「死」を専門に手伝う支援者を指す造語だ。そこに新たな収益源として加わったのが、AIラボへのデータ売却である。
「産業廃棄物」から「訓練素材」へ
SimpleClosureは2025年4月にデータ売買プラットフォーム「Asset Hub」を立ち上げた。コードベースだけでなく、社内メール・チャット・ドキュメントなどのワークスペースデータも売却できる。買い手はファウンデーションモデルを持つAIラボ、AI訓練用の模擬ワークスペース構築業者、自社モデルを開発する成熟テック企業など多岐にわたる。150件以上の取引を手がけ、2026年末までに累計1,000万ドル以上をスタートアップ側に還元する見込みだという(後述するGoogleのSpirit Airlines案件の1,000万ドルとは別の数字である)。CEO Dori Yona氏によれば、かつて「タブー視」されていたこうした取引は急速に日常化しており、現在SimpleClosure案件の**47%**にコードまたはデータの売却が含まれる。
競合のSunsetも同様のビジネスを展開している。Sunset CEOのBrendan Mahony氏は、資産評価の基準として「従業員数・稼働年数・データ量・ツールの活用度」を挙げ、こう例えた。「このオペレーショナルデータは木くずのようなものだ。誰もが価値ゼロだと思っていたが、実は相当なものがある」
何がデータの「価値」を決めるのか
強化学習(RL)向けデータ企業のSurge AIは、このデータを「RLジム(強化学習エージェントがタスクを練習する仮想環境)」の構築に用いる。複雑なITアーキテクチャのデバッグや、控訴審の準備書面の作成といったタスクを想定したものだ。同社のNick Heiner氏は、「意見の相違やトリッキーな判断が含まれた深みのある会話が記録されたSlackのアーカイブは、別企業のSlack・メール・カレンダー全部より価値が高いこともある」と語る。
ただし、実データによる訓練が合成データと比べてどれだけ性能向上をもたらすかは、まだ誰も定量的に示していない。価格設定も「10万行のコードから何件の有用なタスクが得られるか」という研究仮説ベースで行われており、買い手によって提示額がばらつく状況だ。
大型案件も動き始めた
不確実性があっても、大型取引は実際に発生している。2026年8月、破産申請したSpirit Airlinesのデータ売却入札でGoogleがAIデータ企業Mercorを上回り、約1億通のメール・5億件のTeamsメッセージ・17万6,000件の従業員記録を含むデータを1,000万ドルで取得した(Reuters報道)。またBloombergの報道によれば、SpaceXのAI部門も経営難スタートアップからのデータ購入を検討中とされる。
「法的に放射性」なデータ
法的リスクも顕在化している。Spirit航空の客室乗務員組合はプライバシーを理由に売却に異議を申し立てた。AIスタートアップを顧問するGreg Ewing弁護士は、こうしたデータを「法的に放射性物質(legally radioactive)」と表現する。メールやカレンダーには医療予約、子供の送迎手配、デートの予定といった極めて個人的な情報が含まれうるからだ。
売り手・買い手ともに個人識別情報の除去を行うと説明するが、エモリー大学法学部のIfeoma Ajunwa教授(『The Quantified Worker』著者)は、これを「捕捉された資本(captured capital)」と批判する。従業員監視データは業務遂行という目的のもとで正当化されるが、廃業後にその根拠は失われる。「雇用主は従業員データを売却する前に、明示的な同意を得るべきだ」と同教授は述べる。しかし現時点では、こうした売却を禁じる連邦法は存在しない。
また売却益は通常、シニア債権者や投資家に流れ、元従業員には届かない構造になっている点も問題として指摘されている。
まとめ
創業者はデータの売却先や用途をほぼ把握できず、適正価格かどうかの判断も難しい。価格は今後1年で安定に向かう可能性があるが、AIバブルの崩壊が先に来るかもしれない。訓練データの調達手法として「廃業スタートアップのアーカイブ」が定着するかどうかは、法整備と市場の動向が同時に問われる問題だ。プライバシー規制の空白が埋まらないまま市場だけが拡大すれば、従業員の知らないところで個人の業務履歴が商品化され続けるリスクは残る。
詳細はAI labs are buying data from dead startups to train their modelsを参照していただきたい。




