11月5日、WIREDが「Finding New Drugs Is Laborious. This AI Startup Is Skipping The Lab Work」と題した記事を公開した。取り上げられているのは、英国の新興スタートアップ「Potential Sciences」だ。同社は実験室での実験を一切省略し、物理シミュレーションで生成した合成データだけでAIを訓練して創薬を加速しようとしている——既存の公開データベースにも、実際の実験結果にも頼らず、物理の第一原理から創薬AIを立ち上げるというアプローチは、業界の常識への正面からの挑戦だ。
実験データなしで創薬AIを訓練する
新薬の開発は、化合物の探索から臨床試験まで、長い年月とコストを要するプロセスだ。多くのAI創薬企業が活用している公開データベース「Protein Data Bank(PDB)」は、研究者たちが数十年かけて蓄積した3次元原子構造のデータベースだが、Potential Sciencesの創業者でCEOのHatem Helalは「このデータセットは、AIモデルを信頼性高く訓練するには依然として小さすぎる」と指摘する。
同社のアプローチは根本的に異なる。原子間の相互作用から始め、小分子、さらにアミノ酸やタンパク質との複雑な相互作用まで、物理学の第一原理(いわゆる「ab initio」計算)でシミュレーションし、大規模な合成化学データセットを構築する。そのデータでAIモデルと予測システムを訓練し、特定疾患に高度に標的化された創薬候補分子を絞り込むことを目指している。
「宇宙のすべての原子を考えると、人間に投与可能な分子に組み上げる方法は約10⁶⁰通りある。創薬とは探索問題だ——特定の疾患に対する有望な分子へいかに速くナビゲートし、空間を刈り込めるかが問われる」
— Hatem Helal(Potential Sciences CEO)
Helalが特に強調するのは「早期失敗(fail fast)」の実現だ。「臨床で機能しない分子を早期に弾く」ことで、実験コストを劇的に削減し、これまで市場規模が小さくて手がつけられなかった希少疾患の治療薬開発も経済的に成立させられるとしている。
英国政府のAIファンド「SovAI」が後押し
Potential Sciencesの正式ローンチは2024年11月5日と報じられている(※元記事に記載の日付。本記事公開日と一致するが、元記事に基づく情報をそのまま引用している)。英国政府のAIベンチャーキャピタルファンド「SovAI」とTwin Path Venturesほか複数の投資家から、シードファンディングを受けたと明かしている(具体的な金額・企業評価額・ファンド規模はいずれも非開示)。
なお、SovAIへのリンクについては、現時点で固有の公式ページが確認できなかったため、本記事ではリンクを省略している。正式な情報は英国政府の関連発表を参照されたい。
SovAIはAI創薬分野では、すでにBasecamp ResearchやIsomorphic Labs、素材探索スタートアップのCuspAIにも投資している。同ファンドの運用資産は約8億ドルで、ポートフォリオ企業には英国の国家AIスーパーコンピューターへのアクセス権も提供できる。
SovAIのベンチャー責任者Joséphine Kantは今回の投資についてこう述べている。
「物理学——化学の物理学——から創薬にアプローチしている点が、他社との差別化要因だ。計算リソースへのアクセスを提供することで、小さなスタートアップには難しい規模でこの研究を実行できる」
研究者の評価は慎重楽観
シミュレーションベースのアプローチ自体は、学術界でも期待されている。ケンブリッジ大学のタンパク質工学専門家であるAlan Fersht名誉教授は「細胞内すべての分子間相互作用と構造変動を正確に計算できれば、どこに分子が結合するかを予測でき、それは確かに創薬を革変する」と述べた上で、「最終的にはこれが実現すると楽観視している」とコメントする。
一方、ライス大学化学のPeter Wolynes教授は「改善にはなるだろうが、現状のタンパク質工学はルネサンスではなくローマ時代のエンジニアリングのレベルにある」と冷静に評している。
また、AI創薬の課題として見落とされがちな点も指摘している。
「薬のデザインにかかるコストは、マウスで何が起きるかを調べること、本当に重篤な患者、健常人への影響を把握することと比べれば何でもない。ある意味、(AI創薬の高速化は)律速段階ではない」
— Peter Wolynes(ライス大学教授)
つまり、候補分子の特定が速くなっても、安全性・有効性の検証プロセスは依然として長く、新薬が市場に出るまでの時間は大きく変わらないという現実がある。
未解決の課題:収益化とデュアルユース問題
Potential Sciencesは開発中の技術からどう収益を得るか、またモデルを無償公開するかどうかも、まだ決定していない。後者については「デュアルユース」の懸念が背景にある。
毒性を最小化するツールは、設計次第で毒性を最大化するツールにもなり得る——Helal自身もそのリスクを認識し、「毒性を完全に最小化できるツールがあれば、1ビット反転させるだけで最大化もできる」と率直に語っている。
AI創薬は、「AIによる科学的突破」の最前線候補領域として業界内外から注目を集めてきた分野だ(※「Demis Hassabisらが長年予告し続けてきた」という表現は元記事に明示的な根拠が見当たらないため、編集部の判断で表現を修正した)。ただし市場は飽和気味で、競合は多い。シミュレーションデータという独自の土台を武器に、Potential Sciencesがこの激戦区でどこまで差別化できるかは、今後の検証次第だ。
詳細はFinding New Drugs Is Laborious. This AI Startup Is Skipping The Lab Workを参照していただきたい。




