6月19日、Matthew Rocklin氏が「Updated Thoughts on AI」と題した記事を公開した。AI支援による実務を約6ヶ月間継続してきた開発者が、「深さより広さ」というAI活用の本質と、エージェントへのフィードバックループ設計の重要性について詳しく論じている。
Matthew Rocklin氏はDaskの作者として知られる開発者で、VC出資スタートアップとして立ち上げたCoiledを段階的に縮小・独立運営の形へ移行しつつ、DaskのRust実装、Pythonプロファイラの開発、クオンツファイナンスのコンサルティングなど複数のプロジェクトを並走させている。その実践から出てきた知見が本記事の核心だ。
AIの価値は「深さ」ではなく「広さ」にある
Rocklin氏が最も強調するのは、次の一点だ。
AIの驚くべき価値は、超人的な深さではない。超人的な広さにある。
特定分野のトップ専門家を超えるほどAIは優秀ではない。優秀な弁護士は優秀な弁護士のままだし、優秀なエンジニアはエンジニアのままだ。しかしAIは「B+エンジニア」と「B+弁護士」と「B+会計士」を同時にこなせる。ここでいう「B+」とは、米国の成績評価における「良いが最高ではない」水準を指す表現で、トップではないが十分に実務で通用するレベルを意味する。実務の多くは分野の境界に存在しており、人間はその横断が苦手という事実と組み合わさると、これが極めて強力に機能する。
氏が挙げる具体例が鮮明だ。
- MSA(マスターサービス契約)の改定: AIが製品の動作・コード・情報セキュリティ態勢を横断して参照し、顧客データの所有権区分について人間の弁護士が気づかなかった整理案を提案した。弁護士はエンジニアリングを知らないからこそ見落としたポイントだ。
- クオンツ業務との協働: 計算インフラの担当者とクオンツのモデル記述を同一コンテキストに与えたところ、AIが本番に流れていたモデリングエラーを発見した。担当者はクオンツ知識がなく、クオンツは本番の観測方法を知らなかったため、どちらも単独では気づけなかった。
人間の専門家間コラボレーションは「脳間通信」のコストが高く、衝突も多い。AIはそのコストを省略する、というのがRocklin氏の見立てだ。
実践上の結論として、氏は「狭いAIスペシャリスト」は望まず、製品・ユーザー・コード・ログ・契約・請求履歴・ドキュメント・長期目標すべてを含む広いコンテキストをエージェントに与えることを優先している。「コンテキストウィンドウは今や十分に広い。使い切るべきだ」とも述べている。
フィードバックシステムの設計が開発の核心になった
もう一つの柱は、エージェントへのフィードバックループの構築だ。氏は2025年12月の投稿でも「テストやベンチマークなど自動フィードバックを整備することがエージェントを収束させる」と述べていたが、その確信はさらに強まっている。
フィードバックのあるエージェントは確実に収束する。フィードバックのない優秀なエージェントでも、簡単に脱線する。フィードバックが整った愚かなモデルは、フィードバックのない賢いモデルより優先する。
現在、AGENTS.mdのPhase 1にはプランニングと並んでフィードバックシステムの特定・設計が入っている。
具体例:DaskのRust実装
DaskをRustで書き直しているプロジェクトでは、大量のテレメトリを収集・公開することをメイン機能として位置づけている。CLIのoverviewコマンドがテキストでクラスターの稼働状態を出力し、AIエージェントが問題箇所へドリルダウンできる構造になっている。
Overview http://localhost:8787
state workers 6 (0 idle) waiting 34 processing 1347 ...
→ stuck? observe blocked
ワーカーごとの処理時間、TCPキューの遅延、ネットワーク転送の偏りなどが一覧で見え、エージェントが自律的にボトルネックを特定・改善できる。「スケジューラの状態機械を頭の中で保持しようとするのをやめた。エージェントに良い情報を与えることに集中するようになった」とRocklin氏は述べている。
具体例:Pythonプロファイラ Wiretapp
Wiretappはpyspy系のサンプリングプロファイラで、近接するトレースを実行の「コヒーレントな領域」に集約して見せる。
import wiretapp
wiretapp.start()
これだけでWebページにライブの実行状況が表示され、エージェントはCLI経由でも参照できる。「プログラムに毎回ログやタイミングコードを追加する必要がなくなる。フィードバックは自動化され、過去との比較のために蓄積される」という設計思想だ。
法務・会計との統合で生まれた意外な価値
コードだけでなく、Gmail・Slack・QuickBooks・Google Drive・データベースなどもエージェントに接続している。その中でも請求周りの成果は具体的だ。QuickBooks・契約書・データベースを横断参照することで、請求すべき顧客への未請求や請求コードのバグを発見し、Coiledの収益が実際に増加したという。
法務についても、契約書の交渉にAIを「中立なリーガルコンパイラ」として使う方法を紹介している。両者が箇条書きで合意事項を出し合い、それをClaudeやCodexに与えて契約文書を生成させることで、どちらかに偏りすぎない文書が出来上がり、弁護士を介したレッドライン交換のコストを省ける。
「人間でいる」ことの難しさ
負の側面についても率直に触れている。以前から「AIを使うことが脱人間化のように感じられる」と述べていたが、今も根本的な課題は残っているという。
現在の悩みは主に「セッションの終了を待ちながら画面を見続けてしまうこと」だ。対策として、スマートフォンでセッションをリモート操作しながら外を歩くことで、待ち時間を有効に使えるようになったと述べている。また、複数のエージェントセッションを並行して走らせることで、一つのセッションが収束を待つ間に別の作業を進めるリズムも身についてきたという。
ツール面での改善(自動権限付与、完了チャイム、マルチエージェントマネージャーなど)で6ヶ月前の煩わしさの多くは解消された。しかし機械的な効率化が進むほど、人間としての判断感覚を失いやすくなるという逆説も生じる。「作業が何か違う方向に向かっていると気づく人間的な感覚を保つこと」が最も重要な規律だとRocklin氏はまとめている。AIが広さを担う時代においても、方向性を見極める人間の目は依然として不可欠だという主張は、本記事全体を貫く核心でもある。
詳細はUpdated Thoughts on AIを参照していただきたい。




