9月29日、Nicolo FusiとJonathan M. Carlsonが「Introducing Quine: An AI research system designed for the complexity of biology」と題した記事を公開した。数千にのぼる化合物候補をわずか1週間で絞り込み、数ヶ月分の実験コストを省く——Microsoftの生物学専用AIシステム「Quine」が膵臓がん研究で見せた成果は、AI創薬の現実的なポテンシャルを示す事例として注目に値する。記事では、その設計思想と膵管腺癌(PDAC)への適用結果が詳しく紹介されている。
「生物学のワールドモデル」という問いから出発
AIが言語や画像を扱う領域で成果を上げる中、Microsoftが問うたのは「生物学に対して同じことができるか?」ではなく、より根本的な問いだった。「生物学のワールドモデルを作るには何が必要か?」
ここでいう「ワールドモデル」とは、生物システムの状態を表現し、何らかの介入(化合物の投与など)に対して状態がどう変化するかを予測し、その影響を複数ステップ先まで推論できるシステムを指す。単一のデータセットやタスクに特化したモデルではなく、スケールとモダリティをまたいで知識を接続できる系だ。
なお、「Quine」という名称は、自己参照的な計算プログラム(自身のソースコードを出力するプログラム)を意味するコンピュータ科学の用語に由来する。生物システムが自己複製・自己参照的な性質を持つことと重ねた命名と考えられる。
Quineはその第一歩として設計された。中核となるのは以下の2コンポーネントだ。
- ワールドモデル:ゲノミクス、タンパク質、化学、RNA・細胞状態、バイオイメージングという複数モダリティを共同学習(joint training)することで、あるモダリティの証拠が別モダリティの予測に活用できる共有表現を獲得する
- ハーネス(harness):ワールドモデルとオーケストレーション・推論モデル、科学ツール、文献、ウェットラボ(実際の実験室)、そして研究者を接続するインタラクティブな実行基盤
モダリティを個別に学習した専門モデルを後からオーケストレーションする構成と異なり、共同学習によって表現の分断が起きにくくなる。記事によれば、これは性能を薄めるのではなく、むしろ汎化能力を高め、より広範な生物学的推論タスクをサポートする結果をもたらしている。
膵臓がんの細胞状態遷移で得た具体的な成果
Quineの実用性を示す最も具体的な事例が、膵管腺癌(PDAC)——膵臓がんの最も一般的な形態であり、治療が極めて困難ながんの一種——への適用だ。
ブロード研究所(Broad Institute of MIT and Harvard)との共同研究において、研究チームはQuineを用いて「腫瘍細胞の転写細胞状態を治療標的として操作できるか」という仮説を検証した。PDACでは、腫瘍細胞がクラシカル型とベーサル型という異なる細胞状態を取り、治療応答性が異なることが知られている。
Quineは数千の化合物を対象に、腫瘍細胞を治療上有効な状態へとシフトさせる可能性のある候補を予測・ランク付けした。その結果:
- クラシカル→ベーサルへの状態遷移:Quineが高順位に付けた化合物が、ウェットラボの複数アッセイで最大の転写シフトを示した
- このプロセス全体——化合物探索空間の絞り込みから有望候補のプライオリティ付けまで——はわずか1週間以内で完了し、数ヶ月分の実験と多大な研究コストを省いた可能性がある
- 効果の大きかった化合物の中に、予想外のメカニズムを持つものが含まれており、ドラッグリパーパシング(既存薬の新用途発見)への応用可能性を示唆している
また、逆方向の遷移(ベーサル→クラシカル)は困難だったが、Quineはこの効果が弱くなることを事前に予測していた。加えて、複数の化合物が第三の表現型へ細胞を誘導するという予期せぬ現象をQuineが予測し、これもウェットラボで確認された。PDACの細胞状態空間が単純な二軸より豊かな構造を持つ可能性を示す観察だ。

フェローズプログラムで外部研究者へ開放
Quineは現時点で研究目的のみに使用可能な実験的技術であり、臨床・医療目的への使用は意図されていない。出力の不完全性・不正確さを前提に、適格な研究者によるレビューと実験的検証が必要とされる。
今後の展開として、Quine Fellowsプログラムが立ち上がった。生物学・医学の最前線で研究する科学者を対象に、システムへのアクセスと研究加速の機会を提供する。第1期コホートの応募受付が現在開始されている。
技術成熟に伴い、Microsoft Discoveryなどのプロダクトを通じたアクセス拡大も予定されている。
「完璧なモデルである必要はない」という設計哲学
記事が強調するのは、Quineが実験を置き換えるのではなく、実験前の探索・提案・優先順位付けに計算資源を充てることで、希少なラボリソースをより賢く使う循環を作ることだという点だ。ワールドモデルは完璧でなくてよく、「実験設計を有意義に支援できれば十分」という割り切りが設計の根底にある。
能動的に仮説を生成し、ウェットラボの検証結果をフィードバックとして取り込み、次の探索へつなぐ——この閉ループ型の研究サイクルこそがQuineの本質的な価値といえる。
Microsoftは20年以上にわたり計算生物学の研究を行い、免疫学・ウイルス学・ゲノミクス・医用画像・細胞生物学・タンパク質工学の各領域で成果を積み上げてきた。Quineはその蓄積の上に構築されたシステムだ。
詳細はIntroducing Quine: An AI research system designed for the complexity of biologyを参照していただきたい。




